こんばんは、夜明(よあ)です。
粋に生きて行きたいと思う4月の今日この頃。
しかし粋とはなんぞ?粋に生きるとは?
そんな私の人生の指南書を今回はご紹介いたします。
『不道徳教育講座』三島由紀夫
全69講に及ぶ“不道徳”のすゝめ
まず目次をご覧ください。並ぶ刺激的な言葉の数々!
- 知らない男とでも酒場へ行くべし
- 教師を内心バカにすべし
- 大いにウソをつくべし
- 人に迷惑をかけて死ぬべし
- 泥棒の効用について
……全69講
ええ……こんなに悪事ばかりをはたらいていたらただの不良になってしまう!
と思う方もいらっしゃるでしょうか、
それともすでに読みたくてウズウズしている方もいらっしゃるでしょうか?
そのどちらの方も、三島由紀夫の掌の上で転がされているのです。
それでは、69講にわたるエッセイの中から2講をご紹介いたしましょう。
きっと三島の魅力に気付かされることでしょう。
人の恩は忘れるべし
ええ、そんな!
人から受けた恩を忘れるなんて!
ショッキングな言葉ですよね。
しかし三島の口上に乗せられると、不思議と納得してしまうのです。
命の恩人が隣人だったとする。
最初のうちはありがたい気持ちに満ちているが、数ヶ月もすれば恩を受けた側の心理は分岐点を迎える。
- だんだん御恩を忘れ、呑気にただの隣人として気楽に淡々と付き合うようになる
- 「ああ、今日も隣人である命の恩人の顔を見なければならない」という重荷から、恩人を避け、しまいには憎むようになる
この心理、みごとに真理ではないでしょうか。
2のように、恩人を憎み「恩を仇で返す」よりは
1のように、猫よろしく忘れてしまった方がよほど美徳と言えます。
それで恩というものは借金に似てきて、恩返しの美談を卑しく見せてしまうのです。これがもし情事の思い出のように、貸し借りのないものだったら、どんなに美しくはじまり美しくおわるでしょう。
三島由紀夫『不道徳教育講座』
そもそも、恨みは忘れないが恩は忘れやすいもの。
だからこそ「恩を知る」行為は美談になり得るのです。
告白するなかれ
正直に真実を告白することは美徳とされていますよね。
では、三島はなぜ「告白するなかれ」と説くのでしょう?
さて、なんでも哲学者ニーチェは
「一切合財自分のことをさらけ出す人は、他の怒りを買うものだ」と言ったのだとか。
「自身の衣服(=体面、体裁)を恥じていいのは神だけである」と。
つまり、告白(=打ち明け話)ばかりしている人は
自分自身のことを神様か何かだと勘違いしているのに等しいのです。
どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿を認めてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。
三島由紀夫『不道徳教育講座』
そう、これは三島節で説かれる「親しき仲にも礼儀あり」
一見不道徳に見えるようで、蓋を開けてみれば立派な道徳です。
そして同時に、自衛の方策でもあります。
幸福でありすぎるか、不幸でありすぎるときに、ともすると告白病がわれわれをとらえます。そのときこそ辛抱が肝心です。身の上相談というやつは、誰しも笑って読むのですから。
三島由紀夫『不道徳教育講座』
ユーモラスに語られる真の“道徳”とは
今更ですが、私は美しいものが好きです。
それは、芸術、音楽、文学、生き様、世の中の概念おおよそ全てに適用されます。
そして美しさは、正しさや間違いといった概念の枠の外にあると思っています。
三島由紀夫の作品というのは、精緻に修飾された煌びやかな
少女漫画のようにキラキラとした砂糖菓子を思い起こさせる筆致が特徴です。
何よりも誤解を恐れた三島の神経質さゆえとも言われているようですが、
写真で見るいかにもマチズモ(=マッチョイズム、男らしい男、男性優位主義のことを指す場合もある)な印象を覆す繊細さからは、彼の内面の美しさを感じずにはいられません。
彼の政治的主張はさておき、自分の理想のために生きた彼は、
「不道徳教育」を説くにふさわしい人間だったのでしょうね。
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